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仕事の押し付け合いによって混乱した経緯と所感

今日は日常生活で感じて嫌になったこと、痛み、について書きます

ある打ち合わせで仕事の押し付け合いがありました。

具体的には僕と上司にあたる人、それから、上司の二人の協同者、そして、相手方の担当者2名でした。

そこで、仕事の押し付けあいがありました。

お互いが相手の腹を探る感じがいたたまれなかったです。

そして、一番嫌だったのは、信頼したい上司のことを、上司本人の言葉によって、信頼できなくなってしまい、混乱してしまうことでした。

自分のスタンスが定まらなくなるのが一番嫌でした

人間誰しも完璧ではありませんが、その人の人間性を疑ってしまうような言葉を聞かされると、こちらとしては、悲しくなってしまいます。

僕は何か、人の役に立ち、自分の存在意義を確かめたいのだと思います。

だから、上司がその場をやり過ごすような言葉を使えば、僕も上司に言いくるめられているのではないかと疑ってしまいます。

残念ながら、仕事は役割分担が必要な以上、部下たる僕は、言葉通り、使われることが、役割なので、なんというか、雑務の処理はしなければならないでしょう。

使いっ走りでしかないのかな、なんて思ってしまいました。

主体的に行動していれば誰かが評価してくれるという思いもあって、上司にはお手伝いをさせて欲しいということを言ってきました、そして、そのように行動もして、一定の評価もいただいてきましたが、そうした評価というのも、人を操作しその場をやり過ごすためのものだったのか、なんて思ってしまいました。

いいように使われているのかどうか考えてしまいました。

そもそも、僕は何を求めていたのだろうか

そして、これから、何をすれば、このような、主体性を持ち得ない、人間関係の場から抜け出せるのか。

そうしたことを、考えていく必要があると、痛感しました。

自己主張すべき場面で流されてしまい、それを失敗として引きずってしまうことへの対応策

きっかけは同僚との議論の場で発言できなかったこと

仕事をこなしていくには、役割に応じた業務、義務がある。
その義務をそれぞれが果たす必要がある。
時には何らかの理由で義務が果たされない事態が生じる。
そうすると仕事が回らない。
その場合、メンバーはお互いの認識の食い違いを議論する必要がある。
それはとても面倒臭いことだ。
議論が面倒である一番の原因は、他人に何かを求めたら、自分に跳ね返ってくるからだと思う。
業務遂行のための議論とは、お互いの要求を現実的で具体的な行動に落とし込むことだ。
つまり現状を変えて新たなタスクを作り出す。
新たな要求を出し合い、行動で示し合うことで、すれ違ってしまった状態を清算する。
共通理解を促し、なおかつ、自己負担もしなければならない。
だから、理想と現状が食い違っていたとしても、黙ってやり過ごす方がいいと思うのが普通だろう。
一般的には、人間は誰でも未熟だったり、不完全さが備わっているものである。
余計に他人に何かを求めるというのは気がひける。
自分にも現状を招いた責任があるわけだから。

僕には肝心な場面でコミットする力が足りなかった

その場に流されてしまう。
どうすれば、その場の議論に流されずに済むか。
ずっと議論の場では、大事な瞬間を逃さないように気張っていればいいのか。
気合いだけで行動は変わらない。
注意が必要なこと、例えば、子供の怪我を防ぐという課題なら、子供に目を向けていれば良い。
危なっかしい場面が目に入れば自然と手を差し伸べるだろう。
行動することが難しいわけではないからだ。
やるべきことを主張するといった行動は、行動すること自体が難しい。
主張すべき場面を察知すれば主張できるかというと振る舞えないだろう。
だから困るのだ。

なぜ困るかというと、あれこれその場で最もらしい理由をつけて、納得し、行動せずに済むようにする、もう一人の自分がいるからではないか

単純に馴染みのない状況に恐怖を感じているのだろう。
あまり自覚のないまま、感情に左右されていると言っていいのではないだろうか。
今まで出来なかったことに一歩踏み出す場面では、こうした心の動きがあるはず。
例えば、飲み会に行きたいと思っても、行くのをやめた、とか、相手のためを思って何かしようとしても、やめた、とか。
僕は社交が苦手だ。
社交ってこのような場面で素直に行動できる必要があると思う。
自己紹介を自分からしてみるとか。
一歩踏み出せるかどうかで人間関係における自由度が左右されるのだと思う。
だから自分が感じたストレスを自覚するようにしたい。
これって小さな子が慣れない環境を嫌がってる場面と似てるように思う。
怖いけれども踏み出してみたら楽しんでたみたいな。
新しい場や人間関係を怖がる点では、僕は、子供と変わらない。

子供の時にあった新しい場や人間関係を怖がる心理は今も僕には残っている

何歳になっても未知の状況に対する不安や恐怖を感じるのは変わらなくて、そうした傾向が、強いということをまずは自覚する。
また発言を控えた理由をもう一度振り返ってみる。
そうすれば、完全に自分の行動が失敗だったと断定できないことに思いが至る。
物事は完全に1か0かで割り切れないということを心に留めておく。
これらは、後追いの対策ですが、一つの失敗に囚われてしまった時には難しい思考です。

これに対して、いかに主体的に人間関係において振る舞えるようになるか、その方法を考えることも必要で、これについては、のちの機会に考えてみたいと思います。

ブログを書くまでにやったこと:勢いで独自ドメインをとっても実際にブログを書き始めるまでに1年以上かかった経緯の振り返り

最近なぜかブログを書こうと思うようになった

今までは書かなければと思っているだけだったのに。

なぜ書きたくなったのか、考えてみようと思う。

それと、ブログを書こうと思い立った経緯をまとめてみようと思う。

最初は、生活費を稼ぎたい、副業という目的だった。

ちょうど1年前の12月末に独自ドメインを取得。

しかし、更新は全然続かず。

この時は、アフィリエイトを始めようという意気込みだったな。。

不安だけが先走っていて、地に足をつけるということが難しかった時期だった。

ブログやアフィリエイトではすぐにはお金が手に入らないということも知っていたので、年末から、別の副業に手を出すもそれも4月頃に撤退。

そこから半年は副業関係は休止した。

その間、情報収集だけは続けていた。

そして、生活が一段落し、一区切りついた9月末頃からアルバイトを始める。

この頃からアルバイトだけではなく生活全体がうまくいき始める。

2016年12月現在まで、三ヶ月ちょっとの間、人生で初めて、バイトを継続的にこなし、欲しいものを買うという経験ができた。

アルバイトを始めたものの、アルバイトだけでは限界を感じ、収入源を得られる仕組みを自分で構築したいという気持ちを新たに持つ。

だからといって、現状に対しての不安だけでブログを書いているかというとそうでもない

なぜなら、今は、1年前に焦って、情報発信をはじめとした、個人が出来るビジネスに触れていた時期とは違い、生活の中にブログが組み込まれているから。

ファンになったブログをfeedlyで定期的に購読し、著者の考え方を学んで、行動してみたりしている。

試しにいくつ登録してるか確認してみたら、個人の情報発信者のグループには、52個を登録していました。

自分のロールモデルになるブログも幾つか見つけられた。

自分と似た境遇の人や、純粋に関心を共有できる記事を書いていたり、ためになった記事を書いていたブログをfeedlyに登録していった。

feedlyを使い始めた時には、ブログについて、手が動かない自覚があって、まずは、ブログに触れて、ブロガーのファンになる、ブログによって、顔は見えないけれども、記事を書いている他者とつながるという感覚を経験しないとダメだろうという、意識があったのだった。

そう考えると、やはり、今は当たり前になってしまったけれども、それなりに行動した積み重ねがあって、こうして、記事をかけているということだろう。

そして、ブログに触れていくことで、自分の生活を他者と共有できるということを学んだ

平たく言えば、俺でも書けるじゃん、または、俺もこんな風にやってみたい、と純粋に思えたということ。

ブログに触れていくうちに、お金の不安から、自己表現へ、動機が移っていった。

また、アルバイトを始め、買い物をするようになり、インターネットで情報を摂取する機会が増えた。

そこで感じたことを誰かに伝えたいという思いが出てきた。

狙い通りうまくいって嬉しい、とか、買い物を失敗して悔しいといか、いろんなことを感じるようになった。

理想とする生活を組み立てられたことが一番嬉しかった。

誰かに伝えたい、と思うだけの経験が出てきたということも理由の一つとしてあるだろう。

それから、ここ最近、朝にその日のタスクを書き出して、確認することが習慣づいてきて、そこで、感じたことをブログに書き出してしまえばいいのではないかと思うことがある。

朝書き出すことは、大なり小なり目標を書き出すわけで、その日のうちには、終わらない、プロジェクト的なものが結構多い。

例えば、ここにこれが欲しいから、これをどこどこで買いたい、とか。

そういったものは、ブログに書き出してしまって、その買い物をするまでの過程で、調べた情報を随時、ブログにまとめてしまえばいいのではないか。

このように生活の一部としてのブログの形が見えて来たのが、大きいだろうな、と思う

実際に毎日の繰り返しの生活のシーンの中に、自分がブログを書いている姿が浮かんできたら、あとは、すんなり書けるようになるのではないかと思う。

写真を撮って、商品を紹介したり、動画を作ってみたり、やりたいことは、たくさんあって、理想のうちの、一つか二つくらいしか、現時点では、達成出来ていないけれども。

今までの経緯を振り返ると、自分の生活がうまく回り始め、ブログに表現したいものが出てきた。

そして、ブログという新しい要素を受け入れられるまでに、自分の生活が整った。

そこで、ブログによって、経済的な不安を無くすよりも、自己表現をしたくなってきた。

だから、ブログを書きたくて手が動かなくて悩んでいる人は、ブログを書くということには直接つながらないけれども小さなこと、

例えば、自分の経験をブログに書くとしたらと、想像するとか、個人ブログをチェックするとか、そんなことが、実際には、ブログを書くという行為に一歩踏み出すためには必要なんだと思います。

やったことがないことをやるのには、それだけの慣らしみたいなことが必要なんだと思います

理念的にやるべきだと思っていても、手が動かないのは、心の底では現状に満足しているから。

だから、新しいことに一歩踏み出す際には、なかなかうまくいかないのは当たり前。

理想と現実のずれを感じることが多くなると思います。

ただ、そんな時には、理想通りではないにしろ、現状、達成された事柄に目を向けて、何事も小さな行為の積み重ねの元に成り立っていることを想起すれば、自分の立ち位置を見誤り、焦ってしまうこともなくなるのではないか、と思います。